【§1. フランス大会から、今に至る日本サッカーの歴史】

◎飛行機の中での偶然の出会い

 

山本:林さんとの出会いの話からしていきましょうか。あれは、JALでしたっけ?

林:僕がツアーを申し込んでいたのはANAだったんで。

山本:そうだ。思い出しました。僕と西野さん、プーマのアドバイザーだったんですよ。我々はあのとき、代表チームから離れていまして。僕がジュビロにいたときでした。

林:そうでしたね。

山本:西野さんも、クラブの方に戻っていて。一緒にプーマのツアーに参加することになったんです。

林:あの時、サッカー関係者がたくさん乗っていましたけど。

山本:そのグループは、プーマの関係者です。

林:僕は、まさかあんなところで山本さんにお会いできるとは思っていなかったんで。実は同業の芸能人に会っても、自分から挨拶するのとかって苦手なんです。普段はそういうことをやらないんですけど(笑)。でも、山本さんを見つけて、しかも西野さんもいらっしゃる。この時を逃したらチャンスはないかなと…。

林/山本:(笑)

林:山本さんがジュビロにいらした時に、スポーツ新聞でコーチをやっている山本昌邦に関する記事があって。そこにはメンタリティとか、スポーツ科学のことを意識してコーチをされているという内容が載っていました。そこが、自分の一番の興味の対象としてあって。98年当時はというとスポーツ科学というようなことは、学者の間では言われるようになって来てはいた。でも、実際にそのスポーツの世界で、メンタリティを含めてスポーツを科学的に分析しながら、アスリートに色々なことを日常の中で教え込んでいくということは、たぶん、そんなにはやっていることではなかったと思うんです。今は、それが当たり前になって来ていますよね。そういう意味で言うと、山本さんは先駆者的にそういうことをやられていた人だったんだな、という感じがして。で、是非話を伺いたいと思って、名刺を持って(笑)。西野さんはきょとんとされてましたけど…。俺じゃないのかって。

山本:(笑)

林:日本に帰ってきてお目にかかることができる機会があって。

山本:そこからでしたね。日本がワールドカップに行ったおかげで、日本の熱烈なサッカーファンがみんな、同じ便に凝縮されていたような世界でしたね。たぶん、サッカーが大好きな人が乗っていた飛行機だったと思うんですけど。そこで、林さんと出会うことになるなんて。

 

◎98年。日本人が初めて体験したワールドカップ

林:本当ですよね。ワールドカップの舞台で、日本がそのピッチに立つ。こんなことをいうと今では信じられないかもしれないけど、あそこに立つだけでも。

山本:身震いしましたよね。林さんは、広場とか行きましたか?

林:行きました、行きましたよ。

山本:トゥールーズの広場とか。カフェが日本の人でいっぱいで、そこにアルゼンチンの人が混ざっているって感じでしたね。アルゼンチンのサポーターは余裕がありましたよね。おまえらよく来たな、みたいな感じで(笑)。

林:トゥールーズのスタンドに立って、出てきた瞬間に鳥肌立ちましたよね。涙が出てくるし。

山本:選手がピッチに出てきたときに?

林:そう。

山本:僕もですよ。来たか、ここまで!!って。

林:結果を見ると、やっぱりきついなって。

山本:林さんはあの時、どの辺で見ていたんですか?

林:ゴール裏の斜めの辺りですね。

山本:カテゴリー1ですか?中央メインは、メディア関係者の席として取られているから、カテゴリー1でもゴールライン付近でしたよね。

林:あの時、私は抽選で2枚当たっていたんですよ。それは、ツアーとは別だったんですよ。次のナントで行われた、赤の格子の…。

山本:チームですか?えーと。

林:そう、クロアチア。クロアチア戦のチケットが2枚あった。それをツアー会社の人に、ツアーに含まれているチケットではなく、手持ちのこの2枚を使うわけにいかないかと聞いたら、パックで組んであるから無理だと。で、一応それを持っておいて、自分の席と比べてツアーのよりも良い席だったらそっちに移ったらどうですか?みたいなことを言われたので、気軽な感じで日本を発ったんですよ。僕は開幕戦から行っていたんですよね。

山本:スコットランド対ブラジル戦。パリで。

林:日本戦はその1週間後くらいだったじゃないですか。パリに滞在していると、その1週間でチケットが大騒動になっているわけですよ。

山本:旅行代理店が、試合を観ることができるって、チケットを売ったのは良いけど、チケットが確保されてないっていう大変な騒動になった時ですよね。

林:そうそう。そのニュースが、前のりで入国している我々にも段々入ってきて。ホテルで一緒に朝食とかをとっていると、日本の状況も入ってくるんですよ。その後には、高騰したチケット代金の情報なんかも入ってきて。『ちょっと待ってよ。オレ2枚はあるな』って。

山本:あのとき、いくらでも良いから買うって言われましたね。

林:1枚30万円まで上がっているって、最終的には60万円なんて話も出てきましたから。「え〜っ!!」みたいな。

山本:ここまで来て、観ない訳にはいかないっていう、そんな状況になっていましたよね。

林:そのときには、自分のマスコミ的立場もありますし、高額で売るわけにはいかないですよねー。だから、旅行会社が最初に設定した価格で譲りました。初戦のトゥールーズで試合を観られない日本人がいっぱいいました。心が痛みますよねー、同じサッカーファンとしては。フランスにまで来て試合を観られないのは辛いですからね。

山本:日本が初めてワールドカップに出て、みんな「わ〜っ!!」とお祭りのように盛り上がった。ワールドカップのすごさとか、どんなことが起きるのかっていうことの経験値が全然足りなかったということですよね。

林:そうですね。今考えれば、そんなことは当たり前なわけですから。

山本:日本の旅行関係者とか、サッカー協会の関係者とか、代理店なんかも含めて、そうした経験が無かったっていうことですよね。

林:すべてですよね。選手やチームだけじゃなくて。

山本:だから、色々なことを体験してみないと。分からないこと多いですから。やってみないと分からない。まさしく、ワールドカップで。

林:それが、2002年に日本でできちゃった。

山本:そう考えると、2002年でワールドカップのホストになる前に、一回外で経験しておいて良かったなっていうのはありますね。4年間準備する時間があった訳ですから。

林:本当にそうですよね。



◎98年までの積み重ねが、日本サッカーの礎

山本:日本サッカー界は、1994年のアメリカ大会にドーハの悲劇で行けなくて、98年にはドラマティックな感じでワールドカップに初めて行って、そして2002年にホストと。日本にとって、激動のワールドカップの歴史というのがありますね。

林:そう言われるとストーリーになっていますよね。

山本:ちゃんと苦いものも感じ、苦しいものも乗り越えて来たというのは、大きな財産だと思います。一気に行かなくて良かったな、って、今考えれば思います。もちろん、93年はアシスタントとしてドーハにも行っていたので、悔しさとかもありました。でも、そうしたものを自分が経験できたというのは大きいです。

林:山本さんが携わったサッカーのキャリアは、マイアミもそうですが、オリンピックと平行して、日本のサッカーの流れと時を同じくしていますよね。

山本:運も良かったと思います。皆さん、98年のワールドカップですごく注目するようになっていますけど、その前には、出られなかったアメリカ大会があるわけです。その後の、95年に行われた20歳以下のワールドユースに日本が初めて出場することになります。94年の秋に最終予選があって、そこを初めて勝ち上がった。

林:あれは、どこでやったやつでしたっけ。

山本:ジャカルタです。準決勝でイラクに3-0で勝って。決勝に進んで、ワールドユースに行くんですけど。中田英寿とか松田直樹、田中誠などがいました。

林:そうそうたるメンバーですね。

山本:その選手たちが、成長していって96年のアトランタオリンピックの主力選手として入っていって底上げをしてきた。そういうステップがあって、98年になるんですよね。だから、すごく落ち込んだときから、若者たちが歴史を作っていく。それが、ワールドカップまで繋がっていく、この5年間というのは濃かったですね。

林:すごく凝縮された、濃い時代ですよね。

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