元U-20日本代表監督
山本昌邦
やまもと・まさくに1958年4月4日、静岡県生まれ。43歳。81年ヤマハ発動機入社。ハードマークのDFで日本代表にも選出された。引退後、指導者として3世代のワールドユースに関わる(95、99年はコーチ。97年は監督)。現在はフル代表コーチ。
今から35年前、66年にイングランドで開催されたW杯には、「FA(イングランド・サッカー協会)設立100周年」というサブテーマがあった。「サッカーの母国」といわれるイングランドは、19世紀の時代からサッカーボールを蹴っていたわけだ。その悠久の歴史を鑑みれば、「日本は世界のサッカー後進国」という自嘲論に反発する余地はまずあるまい。93年開幕直後のJリーグ、98年フランスW杯、そして00年シドニー五輪と続いたバカ騒ぎのなかで、我々には、現実を冷静に見つめ直す必要がある。
だがそうした現実のひとつには、わずか8年のプロリーグの歴史しかもたない日本が、ここ数年で急速に世界の表舞台に出てきたという事実もある。「なぜこうも日本人は、ユース世代やオリンピックごときに熱狂するのか。恥ずかしくなってしまう」。サッカー界の真理を突いたそんな意見が存在することも確かだが、この嘆きには、たとえばこんな回答を用意しておきたい。
「日本のプロスポーツは、敗戦によってアメリカ文化の象徴ともいえるべースボールに凌駕されてきた。時代の悪戯が、日本サッカー史の健全な発展を阻害してきた。しかし失った時代が長かったからこそ、伸びしろもまた多い。あまりにも急速な発展に驚き、我々は熱狂するのだ」と。
日本のプロリーグの歴史は、正確には92年に開催された「第1回ナビスコ杯」に遡る。現在のトルシエ日本代表の参謀のひとりでもある山本昌邦コーチは、その前年のU-19(19歳以下)日本代表を西野朗監督とともに率いてきた男である。アジア最終予選の準決勝で韓国に敗れ、93年にオーストラリアで開催されたワールドユースヘの出場権を寸前で逃したが、彼のこのキャリアには続編があった。
日本が自力でワールドユースに初出場した95年カタール大会では田中孝司監督の補佐役を務め、翌年のアトランタ五輪までの道のりを西野監督とともに闘った。またそのかたわらでは、自らチームを率いて97年ワールドユースに出場、マレーシアで2大会連続のベスト8入りを果たして日本の実力を示した。さらにトルシエ体制がスタートしてからは、99年ワールドユースのナイジェリア大会で準優勝を経験し、その後のシド二ー五輪、また来年のW杯に向けてフランス人指揮官のサポートを続けてきた。すなわち彼は、「日本サッカーの急速な発展」を、現場レベルからつぶさに眺めてきた貴重な存在ということになるわけだ。
生き証人が振り返る。
「92年のアジア予選に敗れた後、“次のユースも見てくれないか”という話が来たんで
す。それだったら世界を知っておいた方がいいということで、93年のワールドユース視察に行かせてもらいました。そこで肌で感じたことが“生半可な強化では勝てない。世界のユース世代は、フル代表に近いサッカーをやってる”という現実でした。ボール、フィジカル‥‥‥、すべてのスピードにおいて、そのべースが非常に高かった。そこで得た経験が、初めて世界の扉を開いた2年後のワールドユースに生かせたんだと思います。
ひと昔前までは、海外視察も満足に行けませんでした。世界と闘うスポーツなのに、指導者自身が世界のレベルを知らなかった。それが今では、4大会連続でワールドユース出場でしょ。常に世界との差を感じながら成長し、足りなかった部分を次にフィードバックしてやるという仕組みができています。大事なのは、これを持続させることです。たとえば現在のポルトガル代表は、2大会連続でワールドユースを制覇したルイ・コスタ(72年生まれ/フィオレンティーナ)の世代が中心になって、素晴らしいサッカーを見せていますよね。若い世代で世界に挑戦し、カップを取る。そうした経験を通して、W杯でチャンピオンを狙うことも可能になるんだと思います」
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