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THE FOOTBALL TIMES 10月3日発行 2001年10月17日号

若きコーチ訪問シリーズVol.5

健康第一の子にも上を目指す子にもプレーする場を提供する

《プロフィール》
山本 浩義 氏
沼津出身 1961年9月20日生まれ
香貫サッカースポーツ少年団→沼津第三中
→日大三島高→国士舘大→埼玉教員
→セントラルスポーツクラブ・ジュビロサッカースクール沼津


アトランタオリンピックでコーチを務め、現在2002年ワールドカップに向けて、日本代表のコーチを務める山本昌邦氏、その弟で常に同じ環境でサッカーを親しんできた山本浩義氏は、日本のトップを育てる兄とは、全く正反対の地域に根ざしたクフブでサッカーに親しめる環境づくりを作っている。

現在、多くの団員を持つ「セントラルスポーツクラプ」。東部のサッカーでは、常に上位の成績を納められるチームとして育ってきた。しかしそもそもは、力のあるチームを作るのではなく、地域に密着したコミュニケーションの場としてのチーム作りが出発点だった。そして今でも、その理念は貫きつつ、運営を行っている。

地元香貫の小学校少年団のニ期生にあたる山本氏は、人のいないチームに「6年生が足りないがら」と5年からサッカーを始める。兄は、もともと第三小学校にいたため、そこのチームに所属していた。しかし3歳はなれていたため、実際のところ、大学まで一緒にサッカーをやったことはない。その頃圧倒的な強さを見せていた藤枝、静岡、清水。それに比べて東部のサッカーは遅れていた。しかし山本氏の学年は、身体能力の高い子供が多く、陸上に借り出されては、賞を取っていた。山本氏も、その一人。陸上では、県大会に出場し、記録を残すほど。皆、気持だけは「いける」と信じ、サッカーに親しんでいた。

しかし中学にもなると、身体だけでは難しい。戦術などわからないまま、サッカーを預張っていた。日大三島高は、当時、東部のサッカーのうまい子達が集まっていた。とはいえ、なかなか県では勝てない。東部で予選に負ければ、坊主。県大会1回戦大敗でも坊主。山本氏は、ほとんど坊主でいた記憶しかないという。この時知り合った南谷先生は、この後の山本氏の人生に大きな影響を与える。南谷先生は、釜本氏や杉山隆一氏と一緒にサッカーをやった仲間。練習は厳しがったが、しっかりした練習や技術に、山本氏は楽しくサッカーに取り組めた。毎日伸ぴていく自分が実感できたという。鏡に映る自分の身体や試合の時の技術など、どれもが成長していく。苦しい練習も喜びだったという。

大学進学の時、日産の加茂監督がスカウトにきた。父が病気になったりということもあり、大学進学を辞め、就職をしようかと考える。一旦は、目産入りも決意した。しかし、兄が国士舘大にいて、南谷先生と同じ函館有斗高出身の大澤先生からの誘いもあり、悩んだ挙句に、国士舘大を選ぶ。これが人生の転機となった。

今まで、自分の走力にも自信があった山本氏は、国士舘大の選手を見て「すごいな」と感じさせられた。うまい人はたくさんいるのだと。日の丸をつけた人もたくさんいた。そんな中で、FWからDFに変わる。それでも出たり出なかったりの選手生活を送った。少年時代は、「弟の方がうまい」と言われていたし、自負もあったが、兄の方が日の丸をつけた。同じチームになって初めて、兄の努力する姿を目の当たりにしたという。

今、思い返せば、中学の頃、高校生の兄が自分でバーベルを作って体力作りをしていたのを、ご飯をバクバク食べながら「あいつ何やってるんだ」と思って見ていた記憶があるという。ずっと兄と同じ道を歩んできた山本氏だったが、卒業後、埼玉で教員生活を送る。ある程皮完成されつつある高校生を正味2年半の間に変えていくのは、難しい。

そんなことを思っていた時、幼椎園のサッカー教室を見学する機会があった。子供達が楽しくやってる姿を見て、この年代から一貫してスポーツをやらせたいという意慾が沸いてきた。山本氏の考えていたことは、まさしく、Jリーグの理念であり、外国のクラプチームの形だった。とはいうものの、そう簡単にはできない。しかし、兄も賛成してくれ、現在の形を築き上げてきた。いろいろの地区の子達が、自分はサッカーを、自分は野球をと選び、その場所に行って、指導してもらう。ある程度の人数も確保でき、さまざまなものが楽しめる。子供がサッカーをやっている間に、親は例えば、ゴルフの練習に。お昼は、一緒に。そんな組織ができればという。

現在、幼椎園、小学生、中学生と育成会チームがある。親の手伝いがほとんどないので、育成会のサッカー大会が親の唯一のコミユニケーションの場。上を目指す子はそれなりに、健康第一の子は、楽しくできるように。行き帰りの送迎バスの中でいろいろな話をしながら、お弁当を食べるのが好きという子もいる。いろいろな地域から集まっているので、友達も多い。戸田村がら通う子は、普段船で通うが、試合の前日は船が問に合わないので、沼津の友達の家に泊まる。そういった交流の中で、サッカーを続けてくれたらと願う。

一握りのトップの子達は、あちこちに受け皿があるが、そうでない子達の受け皿は、ほとんどない。しかしそういう子の方が圧倒的に多い。現在、フットサルでも楽しめないか考えているそうだが、兄も「いいなあ。うらやましいな」と協力を借しまないそうだ。

現在の悩みは、場所の広さで、人数が限定されてしまうこと。しかし、スポーツを好きな子が増え、見るだけでなく自分も楽しめる子が増えれば、必然的に層が厚くなる。皆の憩いの場であり、コミユニケーションの場でありながら、選手を育成できる場にもなりうるのだ。「兄からの情報は、貴重ですね」。山本氏が築きつつあるこのクラブは、兄の夢でもあるようだ。

THE FOOTBALL TIMES 10月3日発行 2001年10月17日号掲載