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2002年1月14日 朝日新聞(静岡版)

【世界に挑む静岡のサッカー人】

-頂点見すえ若手導く-


柳沢 敦が相手DFの裏をついて、するすると走り出す。稲本潤一の絶妙なパスをボレーシュートで決めた---。昨年11月7日、埼玉スタジアムであった日本−イタリア戦。日本代表コーチの山本昌邦は、監督のトルシエのわきでペンを走らせ選手のプレーをチェックしていた。
日本は、ほぼベストメンバーをそろえた強豪相手に気後れすることなく戦った。1−1の引き分け。ユースのコーチや監督として中学、高校のころから見てきた選手がたくましく見えた。

日大三島高、国士舘大を経て、ジュビロ磐田の前身ヤマハ発動機の主力選手だった山本は、30歳でコーチに転身した。

南米や欧州など海外の大会や研修を調べては、「行かせてくれ」と、前ヤマハフットボールクラブ社長の荒田忠典(68)にかけあった。帰国してからも、海外の知人に頼んで、強豪クラブチームの監督の戦術を記した本などを取り寄せ、翻訳してもらって読みふけった。「親分肌とち密な研究者の顔を併せ持つ指導者」と山本を評価する荒田は、喜んで海外に派遣した。
山本は全国の高校にも、選手のスカウトのため熱心に足を運んだ。「現在のジュビロを築いたのは、山本の力が大きい」と荒田は言う。

92年、日本サッカー協会から山本に、ユース日本代表コーチへの要請があった。「日本のレベルアップにはユースの強化が必要。それには山本しかいないだろう」と、荒田は送り出した。
コーチに就任してまもないその年の10月。ワールドユース(U−20)選手権初出場をかけた、アジアユース準決勝。日本は1−1から残り5分で1点を奪われ、韓国に負けた。若い服部年宏、川口能活、伊藤輝悦の泣きはらした顔があった。

「日本のユースは今、どんな位置にいるんだ」。開幕を控えたJリーグフィーバーのなか、ワールドユース(93年)が開催されたオーストラリアで毎日、試合会場を転々として試合やトレーニングを見て回った。決勝戦はブラジル−ガーナ。体の動き、ボールの速さから判断、スピードまで日本とまったく違った。

「海外を知らないのでは始まらない」

海外の文献や国内の指導者たちの話を参考に、選手の特徴やレベルにあった練習を工夫する。パスをもらうからだの向きが少し違うだけで、視野ががらりと変わる。いい視野が確保できれば判断も早くなりゴールも狙える。

理論的に解説し、選手たちを納得させて何度も練習を繰り返した。

結果は、ついてきた。

95年のワールドユース選手権で初めて予選を突破しベスト8。96年五輪では28年ぶりの出場を決めた。指導者として、「頂点」との距離が測れるようになった。
日本代表での山本は、トルシエの考えを選手に伝える「フィルター」だ。決して自分の色は出さない。長い年月をかけて選手の性格は心得ている。積み上げた「財産」があるからこそできる役割だ。
トルシエが監督になった当初は、選手やスタッフとのコミュニケーションに厳しい状況もあった。だが今は、「トルシエも私もプロ」日本代表を強くして勝たせることが目的だ」と、山本は言い切る。
代表選手や高校生の練習や試合を見に、海外や全国各地と、家族がいる磐田市の自宅を行き来する。そして日本のW杯優勝を遠くに見据える。

約70年のW杯の歴史で優勝した国・地域はたったの7つ。「10番目くらいに、日本がトロフィーを手にできれば」。

今は、厳しい道のりのスタート地点に立ったばかり。「立ち止まったら、その瞬間に抜かれてしまう」。終わりのないレースを闘うものの実感だ。

2002年1月14日 朝日新聞(静岡版)掲載