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2002年5月 日経ビジネス 2002.5.6号掲載記事

―ひと烈伝

山本昌邦氏 [サッカー日本代表チームコーチ](2)


「おにぎりを食べるな!」

ジュビロ磐田の前社長で、山本の結婚の仲人も引き受けた荒田忠典は「自分が社長の間でも3回くらい『もうトルシエとの仕事を辞めようかと思います』と言ってきた」と振り返る。

2人の最初の共同作業だった99年4月の世界ユース選手権(ナイジェリア)。準優勝という快挙を成し遂げたこの大会で、すでに感情の行き違いは発生していたようである。もともとこの大会は、予防接種をしていない選手をトルシエが強引にナイジェリアに連れていこうとするなど、出発前からゴタゴタ続きだった。選手を送り出すクラブとトルシエの間には不穏な空気が流れ、事態収集に乗り出した協会幹部との話し合いや正代表のブラジルとの親善試合の日程が重なったりで、トルシエ自身がナイジェリアに入ったのは大会が始まった後だった。大会前の練習を山本に任せた流れで、トルシエはナイジェリアへの到着後も後見人を装うふうだった。だが、日本の快進撃が始まると俄然やる気を発揮、ぐいぐい前面に立ってチームを引っ張り出す。

スペインとの決勝戦の朝のことだ。山本をはじめ日本人スタッフは、猛暑と連戦で疲れ切った選手を励まそうと、方々に手を尽くして朝食のテーブルにおにぎりを並べた。だが、席についたトルシエはこれに激怒したのだ。 「ここはナイジェリアだ。朝はコーンフレークを食べるんだ!」

スタッフは泣く泣くおにぎりを捨てたという。日本の生活を丸ごと海外にまで持ちこむ弊害は確かにある。海外遠征に出ても宿舎の部屋に閉じこもりテレビゲームに興じる選手の姿は、トルシエには脆弱としか映らない。おにぎりの件も、トルシエの目には甘やかしの一種として映ったのだろうか。

一方で、選手たちは毎日おにぎりを食べていたわけでもない。決勝の日に特別におにぎりを用意して士気を鼓舞することは、勝利の法則から逸脱した行為にも思えないのだが・・・。

チーム崩壊救ったディフェンダー

山本の不在が裏目に出たと思われるケースもある。パラグアイで一敗地にまみれた99年6月の南米選手権だ。

シドニー五輪アジア地区予選と日程が重なったため、1次ラウンドの突破が確実になった段階で五輪チームを山本に預け、トルシエは単身パラグアイに乗り込んだ。結果は南米勢のきつい洗礼を浴び、1勝もできずに終わった。自慢の「フラットスリー」と呼ばれる守備網をずたずたに引き裂かれ、負けるたびにボルテージが上昇したトルシエ。報道陣を前に次ぎから次ぎへ名前を列挙しては「あいつもダメ、こいつもダメ」と選手を酷評した。

この時「永遠にリーダーになれない男」と槍玉に挙げられたのが名波だった。名波は後に、2000年アジアカップ(レバノン)で日本を優勝に導き、MVPとなる。

当然、チームの雰囲気は最悪に。結果的にこの大敗は日本代表に新旧交代を促す大きなきっかけとなるのだが、選手と監督が一触即発の危険な状態に陥ったのも、山本という緩衝材になったりガスを抜いたりする人物を欠いていたことと無縁ではなかったろう。

山本に対する周囲の評は「とにかく勉強熱心」。1958年4月静岡県に生まれ、日本大学三島高校から国士舘大学を経て、81年にヤマハ発動機に入社。チームは日本サッカーリーグ2部から1部に上がって2年目のシーズンで、監督は「黄金の左ウイング」と称された杉山隆一。山本自身は冷静な判断と鋭いタックルが売り物のディフェンダーだった。ちなみにトルシエも選手時代はディフェンダー。

学生の頃から将来を嘱望され、77年のアジアユース選手権(イラン)や、80年のスペインW杯予選(香港)を金田喜稔、木村和司(共に現在は解説者)らと一緒に戦っている。しかし、肩の脱臼癖が手術をしても完治せず、選手としての大成を阻まれて29歳で引退した。

選手時代から情熱家だったが、スカウトとして高校サッカーの指導者たちと親交を深めたことも、勉強に拍車をかける材料になったようだ。元日本代表監督の加茂周によると、「高校サッカー部の監督には生半可な社会人の監督より気合の入った人間が多い」という。そうした人々と拮抗していくには、「日本リーグでプレーした」という実績や経験論、精神論だけでは通じないし、前途有望な若い選手たちの芽も摘むことになる。自身が故障に泣いたことは、スポーツ医学に関心を向けさせる一因にもなったようだ。

サッカーに限らず、日本には、大人のプロ選手を指導するのは一流で、高校生などを指導するのはワンランク下のコーチという偏見がある。しかし、現実には要求される仕事に質的な違いがあるだけで「高低」などない。おそらく山本の胸中には、そうした風潮への反発心もあったのではないだろうか。

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日経ビジネス 2002.5.6号掲載