日本大学付属広報 2003/spring

アテネで36年ぶりのメダル目指す

昨年のサッカーワールドカップ(W杯)。日本チームがベスト16に進み、列島は興奮に包まれた。その”快挙”の陰の立役者である。日本代表コーチとして選手を導き、トルシエ監督を支えた。指導者としての評価は高く、昨年7月、アテネ五輪代表監督に就任。今、1968年メキシコ五輪以来のメダル獲得という国民の熱い期待を背に受けている。

いつか「高い山」の頂上に立つ

「アテネでは前回(シドニー五輪・ベスト8)より上の成績を目標に、若い選手たちにいい経験をさせてやりたい」。また「W杯は夢の舞台だった。スポーツイベントとしては世界一高い山だが、日本が頂点に立つ日も来ると思う。そのときのためにひとつでも階段を上がっておきたい」と語り、2006年のドイツW杯も視野に入れている。
小学校からサッカーを始め、卒業文集に「将来の夢は日本代表選手としてオリンピックに出ること」と書いた。以来、サッカー一直線。高校ではディフェンダーとして活躍し、主将を務めた。チームは好成績を挙げながらも、レベルの高い静岡県では、全国大会出場の機会がなかった。高校3年のとき、既に進学が決まっていた国土舘大学サッカー部監督の推薦でユース代表選考の合宿に参加し、代表に選ばれたが「こんな優秀な選手がどうして今まで埋もれていたのか」と関係者を驚かせた。

若い選手との信頼関係が財産

ヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)で選手生活を送った後、30歳で指導者の道に入り、ユース日本代表のコーチ、監督として若い選手を育ててきた。中田英寿選手はじめW杯代表選手のほとんどが「教え子」で、長い間に培った熱い信頼関係が「私の財産」だと言う。
毎年1月2日、三島高サッカー部の現役、OBらが集まる「初蹴り」には欠かさず参加。後輩たちに「夢を持って頑張れ。あきらめない限りチャンスがある」と励まし続けている。そして「(県代表になって)ぼくを正月の国立競技場に連れて行ってくれといってるんです」と笑ったが、それは世界を舞台に戦う監督のもう一つの夢でもある。

2002年4月 日本大学付属広報

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